アドレス日本一周 west[85]
投稿日:2013年2月22日
遣唐使船が旅立つ港
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「鑑真上陸の地」の秋目浦を出発。アドレスを走らせ、国道226号で坊岬を目指す。今藤峠を越えると久志浦、その次が泊浦、その次が坊津になる。野間岬から坊ノ岬までは切り立った断崖が連続するリアス式の海岸で、その間に入江が点在している。
野間岬が記紀神話の岬だとすると、坊岬はそれ以降の歴史の岬ということになる。
坊ノ岬に近い坊津はかつては伊勢の安濃津、筑前の博多津とともに、「日本三津」と呼ばれ、中国大陸や南方諸国との交易の拠点になっていた。この小さな入江が日本三大港のひとつになっていたのだ。
遣唐使船も坊津から出ていた。きらびやかな唐の文化にあこがれた多くの若者たちが、ここから東シナ海の波浪を越えて唐の国に旅立っていった。
ぼくは坊津と聞くと、すぐに空海を思い浮かべる。
2009年にアドレスV125Gで「広州→上海2200キロ」を走ったが、その途中、福建省の省都、福州から寄り道をして霞浦の町まで行った。霞浦郊外の赤岸というところが空海の上陸地点。そこには空海像をまつる「空海大師記念堂」が建っている。現在の海岸線ははるかに遠くになっているが、それは1200年の間に埋め立てられたからだという。
それにしても空海は強運な人間だ。延暦23年(804年)の第16次遣唐使船に乗ったのだが、坊津を出ると、4隻のうち2隻は嵐で沈没した。空海の乗った船はからくも沈没をまぬがれ、赤岸に漂着。空海は上陸の許可が下りるまでの40日間、霞浦に滞在した。上陸許可が下りると海路で福州まで行き、福州から陸路で上海に近い揚州に向かった。揚州は鑑真の生まれ故郷。そこから大運河などの川船で洛陽まで行き、唐の都の長安(現在の西安)に入ったのだ。
そのときの遣唐使船4隻のうち1隻だけは予定通り、寧波港に到着した。その船には最澄が乗っていた。最澄は寧波に近い天台山で修行を積み、日本に帰国後、天台宗を開いた。真言宗を開いた空海、天台宗を開いた最澄と、日本の精神文化二大巨頭はともに坊津から唐に渡った。
そんな坊津の歴史資料を展示している「坊津歴史資料センター輝津館」(入館料300円)を見学し、坊津港口にある坊ノ岬まで山道を歩いた。岬突端の灯台からキラキラと光り輝く東シナ海を眺めながら、「この海の向こうは長江の河口だ!」とカソリ、改めてそう思うのだった。